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新しい現実 政治、経済、ビジネス、社会、世界観はどう変わるか|ピーター・ファーディナンド・ドラッカー

ピーター・ファーディナンド・ドラッカー氏の「[新訳]新しい現実 政治、経済、ビジネス、社会、世界観はどう変わるか」という本、英語の響きがやけにかっこいいです――「THE NEW REALITIES」。日本の古典文学の独特な言葉の響きにもぞわぞわしますが、磨きあげられた英語のかっこよさにも、ふるえます。

1.すでに起こった未来、新しい現実

この本のタイトルも、先日の記事でとりあげた本のタイトルとも関連しています。(わたしは英語では読めませんので、日本語に翻訳した場合のみ、関連しているのかもしれません。「すでに起こった未来」の原題は「THE ECOLOGICAL VISION」ですので、「生態学的な見通し」くらいでいいのでしょうか。わかる人がいれば、教えてください。)

したがって、政府、ビジネス、労働組合、大学、教会のリーダーたる者は、今日の意思決定に「すでに起こった未来」を折り込む必要があるとした。そのためには、今日当然としているものに反し、かつ「新しい現実」をもたらしつつあるものが何であるのかを知る必要があるとした。


第Ⅰ部「政治の現実」では、部のタイトルの通り、政治について書いています。この本が発表された1989年の時点で「すでに起こっている」「新しい現実」に基づいて、1989年以降の見通しを書いています。

ピーター・ファーディナンド・ドラッカー氏の見通しの土台は、あくまでも事実に基づいています。その事実とは、過去であり、歴史であり、そして、それらの過去や歴史を、今起こっている現実と、無数に重ね合わせながら、見通しを確認していきます。

2.ひとりの人間に流れ続ける一本の水脈

第1章「歴史の峠」では、1989年に発表されたにもかかわらず、1939年、29歳のときに発表したデビュー作の中心テーマに、ずっと視線を送っていることが伝わります。おそらく、短期的なものごとよりも、じっくりと腰をすえて、長期的なものごとにとりくむことを、自身の個性としてとらえています。

そのテーマとは、マルクス社会主義やファシズム全体主義など、一時的にとはいえ、人間の生活を強制的に制限した社会の仕組みに関することです。ピーター・ファーディナンド・ドラッカー氏の「ドラッカー名著集9 「経済人」の終わり」という本から、ある時代の空気を感じとることができました。

第2章から第3章にかけては、欧米の政治原理について書いています。第2章では、過去200年に及んだ「社会による救済」が終わったことを書き、第3章では、過去100年に及んだ「利害による政治勢力の結集」、階層型政治について書いています。「 」に書かれた言葉がどういうことなのか、わたしもさっぱりわかっていませんでしたが、実際に読んでみると、よくある歴史の本とはちがった視点で、すでに起こった、新しい現実が、個性的に展開されていました。

第4章は、ロシア帝国の崩壊を、時間的にも、空間的にも、あちこちに目を配りながら、ひとつの国の行く末を判断するための、現実の材料を拾い集めていきました。そして、この本が発表された2年後の1991年に、ソ連はなくなっていたという――。さらに、ロシア帝国が崩壊した後の、あちこちの国への影響について書いています。

第5章では、不経済な存在となった軍事力を、政治における主人の役割から、手段の地位に引きおろす必要について書いています。そして、第Ⅰ部をしめくくる言葉として、最後にこう書いています。

だが、もっとも重要かつもっとも基本的なことは、国防と軍事力の機能の再点検である。もはや国防は不可能であり、可能なのは報復だけである。軍事力も、もはや政治の有効な手段ではない。しかし、再び意味ある存在となるためには、軍は何でなければならないのか。また、いかに行動しなければならないのか。

3.多元社会

第Ⅱ部のタイトルは「多元社会の到来」となっています。この多元社会という言葉が、ふつうの生活をしているだけでは、お目にかかることもありませんし、さっぱりわかりません。

次のヒントになりそうな章題をながめていくと、第6章「政府の限界」、第7章「多元社会の到来」、第8章「求められる政治リーダー」となっていました。

部題と章題からわかることは、多元社会では、政府に限界が生じ、求められる政治リーダー像も、新しいものになっているということくらいです。そして、第7章を読めば「多元社会」が「到来」しているということですので、このよくわからない言葉の意味も、わかるのだと思います。

4.これまでの「多元社会」

●第6章「政府の限界」

多元社会が到来したことによって「政府の限界」が生じた。

そのことを説明するために、19世紀には政府活動の多くが成果をあげていた理由を書き、第二次大戦後には、政府にできることには限界があることを書いています。

また、政府の金で買えるものにも限界があり、税金でできないこと、租税国家の限界についてふれています。ここでもヨーゼフ・アロイス・シュンペーター氏の考えを、ピーター・ファーディナンド・ドラッカー氏は援用していました。


●第7章「多元社会の到来」

「多元」という言葉をわたしが意識して目にしたことがあるのは、ウィリアム・ジェームズ氏の「多元的宇宙」という本以来でした。

ふだんほとんど使うことのない言葉ですので、それぞれ原文ではどうなっているのでしょうか。日本語のある辞書では、

たげん【多元】ものごとの成り立つもとになるものが多くあること。(角川必携国語辞典)

実際のところ、この本を読んでみても、「多元社会」という言葉のイメージがうまくつかめませんでした。ピーター・ファーディナンド・ドラッカー氏の言葉をそのまま理解しようとすると、

社会の多元性は機能と成果に焦点を合わせる。それは、財の創造、教育、医療など、それぞれの社会的役割をもつ単一目的の組織からなる多元性である。

ということになります。

おそらく、あまりむずかしく考える必要はなくて、程度問題にもなってくるのかもしれません。

政府に権力を比較的に集中させていた時代の社会のことを一元社会ととらえ、その頃よりも政府の権力が他の組織へ分散されている時代の社会のことを多元社会というふうにイメージしていいのかもと思っていると、思わせぶりなことが書いてあります。

多元社会そのものは新しくない。人類の歴史において、ほとんどの社会が多元的だった。

5.新しい「多元社会」

さて、――。

実際、わたしには、いつの日本の社会が一元社会で、また、多元社会なのか、やっぱり、はっきりとわかっていません。

先ほどの文章も、わかろうとして書いてみただけで、わかったふりをするつもりはなかったんですけれど、ここまで書いていると、やっぱり、先ほどの文章は、わかったふりをしているなと思います。

とすると、タイトルは「新しい多元社会の到来」と書いていただいた方が、わたしにはわかりやすかった。


●第8章「求められる政治リーダー」

この章に書かれていることはシンプルで、問題に対して真面目に、集中することができ、重労働を行える、有能でビジョンをもったリーダーが必要と書いています。

だが、諸々の新しい現実は、目的はほぼ明らかとする。問題はそれらの目的を達成するための手段である。

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