こころとからだ+思考|アントン・チェーホフからジョージ・オーウェルへ
こころとからだ。精神と物質。
アントン・チェーホフ氏は、登場人物のアンドレイ・エフィームイチ・ラーギンに小人の哲学をさせました。
「この世のことはいっさいのたわごと、空の空」
「あらゆるものは時とともに朽ち果てて土に還るのは当然じゃないか」というふうに。
そして、そう信じていた登場人物自身をうまく精神病棟へ閉じ込めてしまうようにストーリーを展開させます。すると、これまでの哲学はすべて、未体験の人間の、想像力の欠けた哲学だったことに気がつきます。そのことを実際に精神病棟にいれられている、苦痛を体験している人間、イワン・ドミートリチ・グローモフは常々うったえていました。
いや、僕が知りたいのは、どうしてあなたが、人生の理解だとか、苦痛の軽蔑だとかに通じていると自分で思ってるかってことですよ。そもそもあなたは苦しみを感じたことがあるんですか。苦しみってことがわかってるんですか。じゃアあなたは、子どものころに鞭で打たれたことがありますか
このあたりから考えると、人間は自分が体験したこと以外に想像力は真実まで届かないということを、アントン・チェーホフ氏は書きたかったのかもしれません。からだとこころは当然に不可分で、現実に生きている人間を精神と物質にわけることは絶対にできませんし、ある苦しみは、その苦しみを受けたことのある人にしか、ほんとうのところはわからないということを――
アントン・チェーホフ氏からジョージ・オーウェル氏へ
アントン・チェーホフ氏が人間のこころ(精神)とからだ(物質)の問題にふれた50年後、ジョージ・オーウェル氏が人間の精神と物質の問題に、思考という要素を追加しました。
まず、ジョージ・オーウェル氏は登場人物のウィンストン・スミスにこういわせます。
苦痛を前にしたら、英雄もへったくれもあるものか
この段階、アンドレイ・エフィームイチ・ラーギンが絶望した段階では、ウィンストン・スミスはまだ、だれにもさわれない自己の内なる核と信じているものをなくしていません。これが登場人物のオブライエンは気に入りません。
昔の異端者は最後まで異端者であることを止めず、異説を高らかに唱え、それに狂喜しながら、火刑場に向かった。ロシアの粛清の犠牲者でさえ、銃殺場に向かう通路を歩きながら、頭蓋のなかには反逆心をしっかり保持していることができた。しかしわれわれはまず脳を完全な状態にし、それから撃ち抜くのだ。
アントン・チェーホフ氏の作った登場人物アンドレイ・エフィームイチは、精神病棟に閉じ込められた時点で未来が見えなくなり、絶望にとらわれ、永遠に意識を失いましたが、一方のジョージ・オーウェル氏が作った登場人物ウィンストン・スミスは、愛情省という監房で拷問を受け続けながらも、魂をめぐる問題、だれにもさわれない自己の内なる核と信じているものをめぐって、最後の最後の手前まで闘い続けました。が、――
登場人物に強度のちがいが生じたのは、二重思考という要素が追加されたためだと思います。
ジョージ・オーウェル氏が書きたかったのは「政治的意図と芸術的意図を融合させた統一体」だったので、それ描くためには政治的意図を満たすための組織や集団を必要とし、その組織や集団を描くために二重思考を必要とした。解説にトマス・ピンチョン氏が二重思考の説明をしてくれています。
<二重思考>とは、すべての党員にとって望ましくかつ必要な訓練であり、その目標は矛盾する二つの事柄を同時に等しく信じるようになれることである。
こころは思考で偽ることができますが、こころそのもの、これを魂と位置づけておきますが、この魂を崩壊させるところまでもっていくために、この二重思考という概念と、ウィンストン・スミスというタフな登場人物を必要としたのかもしれません。
- アントン・チェーホフ(1860―1904):「六号病棟(六号室)」を1892年に発表
- ジョージ・オーウェル(1903―1950):「一九八四年」を1949年に発表