外套|ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ
ジョルジュ・シムノン氏への憧れ
ジョルジュ・シムノン氏の「ロマン・ロマン」が大好きですので、「どのような本を好んで読んできたのか」ということが気になります。
わたしが手にすることのできる情報は、単なる断片ですが、以下のような発言をしていた頃もありました。
おそらくもっとも強烈な印象をあたえたのはゴーゴリでしょう。それからむろんドストエフスキイですが、しかしゴーゴリのほうが上です。(中略)おそらくゴーゴリはまさしく日常生活のなかに出てくるような人物で、しかも同時に、私が求めつづけている、私がさっき第三次元(奥行)とよんだところのものをもっている人物を、創造したからです。彼らの人物のすべては、この詩的霊気をもっています。しかしオスカー・ワイルド風のものではなく――自然に生まれ、そこにあるコンラッド風の詩です。実に濃密であるのです。
ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ氏、ジョゼフ・コンラッド氏。両者の影響をうけたと答えています。
薄いオレンジ色のソファに横になり、姿勢をなんども変えながら、ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ氏の『外套』をよみました。
自分に合った翻訳者を選ぶ
以前にあたらしいという理由だけで光文社古典新訳文庫を選んでしまい、へんな翻訳をよまされ、ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ氏の作品からはなれた経験がありました。
今回は岩波文庫をえらび、平井肇氏が翻訳をしている「外套」と「鼻」を体験しました。バッチリでした。「外套」はめちゃくちゃおもしろかったです。
読書の対象が「憧れ」だけでなく「平凡」も含むように
それなりに見栄えのする人物しか主人公になれず、かっこいい話しか物語にならないような気がしていたところに、あたしい風をふかせ、あたらしい価値観を提供した。しかも書かれたのは1840年(発表は1842年)。「外套」が小説としておもしろい以上、だれでも主人公になれ、どんなことでもストーリーにできるという可能性がうまれました。
ちょうどこのあたりから、少しずつ芸術への価値観が変わっていたのかもしれません。オーギュスト・ロダン氏がその作品「鼻のつぶれた男」を制作したのは1865年ですが、理想や憧れだけを芸術と認識するのではなく、人間の内面を掘り起こせば、平凡にも、というよりも、平凡にこそ、いくらでも美しいもの、芸術はでてくるじゃないか、という考え方が、どんどんでてくるようになったのかもしれません。
他にも影響をうけたとされている作家を以下に書いておきます。
- ロシア:プーシキン、チェホフ
- イギリス:ディッケンズ、スティブンソン
- アメリカ:フォークナー
- フランス:バルザック、スタンダール
- 詩人:ジャック・プレヴェール、ジャン・コクトー