あくまでも「ブログ」。

「芸術、お金、仕事」のことを書いています。「ハッピー・ライティング」を目指します。

自分の手がうみだすもの

大切なものには、相応のものを

大切なものになにか書かないといけないとき、自分の手がつくりだしうみだすものが拙いものだとしたら、あまりいい気持ちではいることができません。この先の人生でなんどもくり返し、そういった場面が訪れるとすればなおさらです。

労働社会保険諸法令関係の手続きを行うときに必要な書類への文字の記入をしているうちに、自分の字に、すこしまいってしまいました。

どうしたらうまくなるでしょうか。

過去の能書に歩み寄る

藤原行成(九七二~一〇二七)は平安時代中期の貴族で、能書として知られ、小野道風(八九四~九六六)、藤原佐理(九四四~九九八)とともに「三跡」と称されています。(『藤原行成の書 その流行と伝称』)

本棚から藤原行成(ふじわらのこうぜい)に関する書をとりだし、ながめてみました。

  • 藤原行成の真跡「詩、陣定(公卿の会議)の定文(議事録)、書状」
  • 行成の書風を真似た作品「延喜式(律令制における格式の式は施行細目)、詩、法華経の注釈書、和歌、板額」

川の水や空の雲を見ていると、こころになにかしらの影響をあたえてくれます。
それと似たようなものを、書もうみだすことができます。

芸術だけでなく、政治においても、書は大切なものとされていたと思います。

最後に、八世紀にいたって史料が急増した理由を考えよう。私の考えでは、律令制にその最大の原因があったと思う。いままで口頭で伝えた行政上の命令も報告も、律令制はすべて文書によれと強制した。文字を覚えることが必要な時代となっていたのである。(『日本の歴史3 奈良の都』青木和夫)

正しく手続きを行うことが目的で、必要以上にうまく書かないといけないとも思いませんが、書いていて目をそむけたくなるような字ではなく、相応のバランスを保ったものを、自らの手でうみだせるようになりたいと――

その人の日記も本棚にあったので、それもめにし、こころのうちがわもすこしのぞいてみます。