小林秀雄全作品13「歴史と文学」|一九四〇(昭和十五年)―一九四一(昭和十六年) 38歳-39歳
一九四〇(昭和十五年)38歳
アラン「大戦の思い出」
翻訳について書きはじめ、途中からなにがなにやらという感じになりますが、いつものようにぼんやりとした塊をごろりと置いています。
不思議といえば不思議な事だが、例えば、「万葉集」が、それが語るあれこれの思想としてではなく、原形のまま生きざるを得ないという事も、僕等のこの不思議な欲望によるのだ。恰も掛け替えのない木や草が在る様に、原詩は在ると信ずる。
期待する人
保田与重郎氏について書いています。明治四十三年に奈良で生まれ、当時三十歳の方です。
ジイド「芸術論」
アンドレ・ポール・ギヨーム・ジッド(André Paul Guillaume Gide)氏について書いてます。アンドレ・ジイド氏は、ジョルジュ・シムノン氏を高く評したそうですので、個人的にいい印象をもっています。
彼が「贋金造り」の制作の苦心を、どんなに鮮やかに語ってみせようとも出来上がったものの詰らなさ加減に変わりはない。
文芸月評 ⅩⅨ
岡本かの子氏「生々流転」、保高徳蔵氏「勝者敗者」、横光利一氏「実いまだ熟せず」、井伏鱒二「多甚古村」、伊地知進「大地の意志」、阿倍知二「風説」、深田久弥「知と愛」について書いています。
世相が次第に複雑になり、生活の様式にしろ、思想や心理の型にしろ、暗黙のうちにお互に通じ合うというていの定った形式が壊されて来ると、小説家は、短編という枠のなかに人生の断片をしっくり嵌め込むことがだんだん困難になる。
芭蕉は不易流行を言ったが、周知のように、両方に足を突っ込むというような易しい説き方はしなかった。問題はそれらの源にある風雅というものを極むるにあった。
清君の貼紙絵
当時18歳の山下清氏について書いています。一九二二年に東京で生まれ、千葉県の八幡学園でちぎり紙による点描風貼絵を習得したそうです。
清君は普通の子供が言葉や数や覚える様に、言わば異常な色感によって色を暗記しているのだ。彼の絵は今後どうなるであろうか。恐らく画家の好奇心をだんだん満足させない様になるだろう。たとえ、いよいよ発達したものになるとしても、彼は、その豊富な色の暗記と組合せの、極めて孤独な世界を出る事はあるまい。彼には、本当の画家の、色を提げて自然に挑む道は開けていまい。ただ清君の絵が画家に語るたった一つの真実な無慈悲な言葉がある。天賦の色感のない者は画家になろうとするな、と。
育児をしている身としては、こちらの言葉に目がとまります。
子供が大人の考えている程子供でないのは、大人が子供の考えている程大人でないのと同様である。
議会を傍聴して
議会の感想を書いています。
これほど退屈なものとは知らなかった。知らなかった方がよかった様なものである。
文芸月評 ⅩⅩ
高山樗牛氏からいろいろなことを考えていきます。
歌も亦形あり目方のある品物の様なものだ。
文章について
書くということにつて書いています。
色を塗って行くうちに自分の考えが次第にはっきりした形を取って行くのである。言葉を代えれば、彼は考えを色にするのではなく、色によって考えるのである。
モオロアの「英国史」について
アンドレ・モーロワ(André Maurois)氏の「英国史」について書いていたはずが、しまいには「英国史」を第三流の史書といいます。
ここで言う天才とは、例えば「神皇正統記」に明らかな様な歴史家の天才の意味だ。又それは、北畠親房にあっては、過去を正確に描いて未来を創り出した大歴史家としての条件が稀有な完璧を示しているという意味だ。
感想
日本人の心について書いています。
日本人の心は僕らの深い処にある。僕等が理解したり或は理解しなかったり、或る時は信じたり或る時は疑ったりして居る思想やら知識やらのもっと下の深い処にある。
欧州大戦
第二次世界大戦(一九三九~四五)初期におけるドイツとイギリス・フランス連合などとの戦争について書いています。
伴大納言絵巻――
処世家の理論
東亜共同体論について書いています。
理論と実際とは離す事が出来ず、意志と分別とは同じものである、そういう結構な智慧を僕等は何の為に天から授っているのだろうか。
一事件
心理的なものが引き起こすトラブルについて書いています。
滑稽なる哉。
道徳について
道徳について書いています。
自信というものは、いわば雪の様に音もなく、幾時の間にか積ったものでなければ駄目だ。
環境 ☆
イポリート・テーヌ(Hippolyte Adolphe Taine)氏について書いています。
芸術家は、具体的な個別性に徹底する事によって普遍的な美を表現する。
オリムピア ☆
オリンピックの話と思いきや、芸術の話になっています。
詩人にとっては、たった一つの言葉さえ、投げねばならぬ鉄の丸だろう。
エドガー(エドガール)・ドガ(Edgar Degas)氏とステファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarmé)氏の会話も引用しています。
ドガが慰みに詩を作っていた時、どうも詩人の仕事というものは難かしい、観念はいくらでも湧くのだが、とマラルメに話したら、マラルメは、詩は観念で書くのではない、言葉で書くのだ、と答えたという。
事変の新しさ ☆
日支事変(日中戦争)について書いています。豊太閤(豊臣羽柴秀吉)の朝鮮征伐(文禄慶長の役)を下敷きにします。
ヘエゲルが、或る日山を眺めていて「まさにその通りだ」と感嘆したそうです、そういう話が伝わっています。
批評家と非常時 ☆
批評について書いています。
政治の動きを決定するものは、金力にせよ権力にせよ、ともかく実際の力であり、あらゆる意味での言葉の綾ではない。福沢諭吉とか中江兆民とかいう大言論家の言論も、政治を動かす力はなかった。
「維新史」 ☆
維新史について書いています。王政復古、尊王思想――
この矛盾混乱に眼を見張って、はじめて、そのなかに生き死にする人間の思想の尊さが解るのである。
どの様な思想も安全ではない。
ヒットラアの「我が闘争」
アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)氏について書いています。
ヒットラアという男の方法は、他人の模倣なぞ全く許さない。
ピーター・ファーディナンド・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker)氏「『経済人』の終わり」を思い出します。
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マキアヴェリについて ☆
マキャベリとマキャベリズムの乖離について書いています。
人間の様々な生態に準じて政治の様々な方法を説くのを読んでいると、政治とは彼にとって、殆ど生理学的なものだったという風に見える。政治はイデオロギイではない。或る理論による設計でも組織でもない。臨機応変の判断であり、空想を交えぬ職人の自在な確実な智慧である。彼は多くの事を漠然にと望まぬ。少しの事を確実に望む。若干の平和と若干の自由を望めば足りる。若干の平和と若干の自由とを、毎日新たに救い出すより外に、平和も自由も空想の裡にしかないだろう。
自己について ☆
いくつかの直観を羅列しています。
「史記」や「大日本史」の列伝を読んでいると、現代の小説から人間というものが消失してしまっている事を強く感ずる。人間を活写する術が、年とともに進歩したという様な事を、どうしても信用する気になれぬ。人間の間違いない姿態を描く術はもうとうの昔に完成しているのだ。
紫式部を思い浮かべます。
ドストエフスキイが、あれほど深く人間心理の迷路に踏み込んで、路を失わなかったのは、登場人物に常に単純な兇暴な行為をさせることを忘れなかったからである。
ジョルジュ・シムノン氏も兇暴な行為をさせています。
小林秀雄氏から学ぶことはこれからもたくさんあるけれども、趣味というものはあるように思います。
小林秀雄氏の平家物語と源氏物語について、吉本隆明氏がこうおっしゃいました。
www.1101.com
小林秀雄氏が小説における心理描写を異常に嫌悪している理由も、このあたりに原因があるのかもしれません。
無意識の視点については、別の著者から補う方がいいかもしれません。
文学と自分 ☆
文学における覚悟について書いています。
文学者の言葉は、そのどちらの種類でもありませぬ。一つの詩を読んで、煙草を持って来る人もなければ、よろしい君の理窟は解ったという人もない。詩は行動のなかにも理解のなかにも消え去らぬ。最初書かれたそのままの姿を何時までも保存しております。
いつものことですが、読んでいてまさかこんなところまで連れていかれるとは――という感じです。
文学者は己れの世界から外へは出ませぬ。(略)
己れの世界とは言う迄もなく自分が直接経験する世界の事です。この世界は狭いものだ。(略)
毎朝、新聞を拡げただけで、ドイツの事からイギリスの事からどんなに種々雑多な沢山の知識が眼から飛び込む事でしょう。而もその知識の一つ一つには、何の確実さもないのである。見てくれはいかにも現実的な知識であるが、その曖昧さその不安定さには驚くべきものがあり、その点で殆ど子供の空想と選ぶ処はない。その上、例えば太陽の廻りを地球が廻っているという誰でも知っている知識にしても、ただ本にそう書いてあったからそういうものかと思っているに止まり、自分で観察し実証したわけでは更々ない、そんな知識も不確実な知識の部類に入れるならば、僕等の不確実な知識の国、つまり僕等の空想の国の広さは莫大なものでありまして、そんな途轍もない空想を背負って暮らしているという事は、――
生活において大切なことも書いてくれています。
空想は、どこまでも走るが、僕の足は僅かな土地しか踏む事は出来ぬ。永生を考えるが、僕は間もなく死なねばならぬ。沢山の友達を持つ事も出来なければ、沢山の恋人を持つ事もできない。腹から合点する事柄は極く僅かな量であり、心から愛したり憎んだりする相手も、身近にいる僅かな人間を出る事は出来ぬ。
芸術上の天才について
芸術上の天才について書いています。分析的な仕事の限界を書いています。
謎が正確に解けた以上、解けたものを逆に結び合わせれば謎が出来ると信じ込む危険であります。(略)何故なら分解された諸要素を逆に組み合せれば、いつでも驚きぐらいは生ずると思い込んでいるからです。
政治論文
批評について書いています。
「松岡外相論」の論者は、松岡という人物に対する自分の信頼の情以外の事を一つも書いていない。それでよいのである。それが批評なのである。
「戦記」随想
数種の「戦記」について書いているはずが、カール・レーヴィット(Karl Löwith)氏の文章への返事になっています。
メスはよく切れているがヨーロッパ流に切れているに過ぎない。氏のメスのとどかない宝は日本国民は沢山持っている。そして宝は恐らく氏が日本人の弱点となすその弱点自体のなかにあるように思う。
処女講演
大学を出た年に関西学院で行った講演について書いています。
電報を持って志賀直哉氏のところへ行った。
一九四一(昭和十六年)39歳
感想
正倉院御物を見に行った時に湧き出てきた感想を書いています。
過去というものは無いのだ。過去とは過去と呼ばれる信仰の意味だ、この平凡な考えが、今更の様に僕の頭を刺戟していたからである。
また、福沢諭吉や山鹿素行の言葉を紹介し、当時の状況に一言述べています。
野沢富美子「煉瓦女工」
才能について書いています。
才能というものは、ほんとうに人間が育って来ると重荷になるものだ。楽に使った自分の才能が楽に使えなくなるものだ。そういう時機が必度来て才能とは何物であるかを教えてくれる。この時機を知らない人は、自分の才能に食われて終る。まだそういう経験を知らぬ人の才能をあまり讃め上げる事はよい事ではない。然し、世間は讃める事によって人をいじめるのかも知れぬ。
富永太郎の思い出
富永太郎氏について書いています。
そして、自分は当時、本当に富永の死を悼んでいたのだろうか、という答えのない疑問に苦しむ。
モオロア「フランス敗れたり」
アンドレ・モーロワ(André Maurois)氏への嫌悪を書いています。
ここに現代人の好尚がよく見える。解り易く、手取り早く話してくれ、しかも退屈しないように話してくれ、皆そう言っている。
島木健作
島木健作氏について書いています。
島木君、君は正しいのだ。早く風邪でも直すがよい。他に何にも考える事なぞないのである。
ロマン「欧羅巴の七つの謎」
ジュール・ロマン(Jules Romains)氏について書いています。
歴史と文学
河合隼雄氏や中村雄二郎氏の言っている「臨床の知」について、すでに書いてあるような気がします。焦点が「歴史」というものに向けられているだけです。
歴史も人生も、二度とくりかえすことはありません。
近代科学にはなれませんでしたが、近代科学の外側で力を蓄えています。
それは、例えば、子供に死なれた母親は、子供の死という歴史事実に対し、どういう風な態度をとるかを考えてみれば、明らかなことでしょう。
歴史について書いています。
僕は、日本人の書いた歴史のうちで、「神皇正統記」が一番立派な歴史だと思っています。(略)
日本の歴史が、自分の鑑とならぬ様な日本人に、どうして新しい創造があり得ましょうか。
林房雄
林房雄氏について書いています。
大工は粗悪な材料から丈夫な家を建てる事が出来ない。芸術家だって全く同じ事なのである。
「歩け、歩け」
高村光太郎についてかいています。
ある著名な詩人と、ある著名な作曲家が、一国民歌謡の創作で失敗したというようなことは何でもない。(略)だが、こんなヘンテコな歌が、生まれでてくる現代日本のヘンテコな文明の得体の知れぬ病気状態が僕にはもうかなわぬ。
小林秀雄全作品(13) 歴史と文学 [ 小林秀雄(文芸評論家) ]
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