あくまでも「ブログ」。

「芸術、お金、仕事」のことを書いています。「ハッピー・ライティング」を目指します。

ボヴァリー夫人|フローベール【再読】

ギュスターヴ・フローベール『ボヴァリー夫人』

小林秀雄全作品を読んでいると、フローベール氏がずいぶんと出てきます。また、ウィリアム・フォークナー氏も以下のように言っています。

ぼくの作品は、当然そうあるべき水準をもっている。つまり『聖アントワーヌの誘惑』とか旧約聖書を読んだときと同様な印象を与えることだ。それらの作品は、ぼくを爽快にする。鳥を見つめている爽快さに似たものだ。

学生時代に一度読みましたが、細かな描写が退屈に感じた記憶があります。
それが今回読んでみたところ、退屈だったはずの描写が退屈じゃないだけではなく、登場人物が三次元的に浮きあがってくるような気になりました。
これだけの描写を積み重ねていくには、どれだけの時間と根気が必要――なだけでなく、人間の本質に迫っていきます。
『源氏物語』がちらちらと――

細部まで手を抜かない姿勢がこのような崇高さを与えているのだと思います。
けれども、日本人の私の心の奥底には「描き過ぎているのではないか?」という感情も残ります。

フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン氏はフローベール氏について、以下のように言います。

フローベールだったと思いますが、「誇張を外にして真に大なるものなし。」と言っています。それはよく言った真理です。彫刻では、筋肉束の隆起に抑揚をつけたり、省略を強めたり、窪みをえぐったりしなければなりません。そういう事が気力と豊かさとを与えます。

クロード・モネ氏はポール・セザンヌ氏について、以下のようにいいます。その意味はわかりませんが、セザンヌ氏の絵とフローベール氏の小説に、どこかしら共通するものがあったのかもしれません。

……量感と色彩との揺るぎないリズムの追求に狂ったように突進し、時にはそれが到達するが、時には自分自身をつかむために悲壮な戦いをする天才の、手探りの状態で足踏みする、絵の世界のフローベール

西洋流では、最高峰な作品なのかもしれません。
この作品から学ぶべきものは無限にあるということもわかった上で、日本人の私には、最高峰な作品は他にあるように感じています。