小林秀雄全作品12「我が毒」|一九三九(昭和十四年)37歳
一九三九(昭和十四年)
翻訳/我が毒 サント・ブウヴ著
シャルル=オーギュスタン・サント=ブーヴ(Charles Augustin Sainte-Beuve)氏の翻訳が、小林秀雄氏の全集に含まれています。それはサント・ブーヴ氏の考え方に小林秀雄氏がなんらかの肯定的な感情を抱いていたからだと思います。
私はサント・ブーヴ氏にはあまりいい印象をもっていませんので、いつも読みとばしていました。学生時代に読みとばして以来、30代になり、今さら読もうという気にはなりません。
そう思いながら読んでみると、本に水色の蛍光ペンで線が引かれていました。いつか読んだのだと思います。記憶というものはその程度のものかもしれません。
サント・ブーヴ氏は、オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac)氏のことをあまりよく思っておらず、ヴァランタン=ルイ=ジョルジュ=ウジェーヌ=マルセル・プルースト(Valentin Louis Georges Eugène Marcel Proust)氏からあまりよく思われていなかった――
「我が毒」について
ご自身の翻訳について簡単な感想を書いています。
文中のラテン語の訳は、森有正氏の手を労した。フランス語の部分も渡辺一夫氏に負う処が多かった。
新放送会館――テレヴィジョンを見る
テレビをはじめて見たときの感想を書いています。
梅若万三郎の「翁」が始まるところであったが、ははあこれが大スタジオという奴か、と高い天井なぞキョロキョロ見上げて、とても謡なぞ聞いている気にもなれず、暫くして出ようとすると、一たん入れたら出さぬ規則だという。
三十分の御辛抱だという。出すと余計な音がするという理由らしいが、中に坐った二三百人の人間が、既に余計な音を出しているのである。
慶州
慶州へ行った感想を書いています。
事変と文学 ☆
当時の小説の登場人物について書いています。いい文章です。
最近の文学が、どんなに沢山の不具者ばかりを描いて来たかに驚くであろう。まるで当り前な人間は、小説人物として失格している様な有様である。小説に登場するには、何か一癖ないといけない。
アナトール・フランス(Anatole France)氏の文章を引用しているのですが、それがフランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン(François-Auguste-René Rodin)氏の言葉ともつながります。
歴史の緩慢な変化についてのアナトオル・フランスの言葉で、この文を始めたのも、いい文学には、そういう歴史の緩慢な変化に対応する、言わば緩慢な智慧というべきものが必ず見附かるからなのである。
ピーター・ファーディナンド・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker)氏の考え方とつながっています。ドラッカー氏の考え方につながるということは、エドマンド・バーク(Edmund Burke)氏の考え方につながっています。
伝統のない処に文学はないというのもその意味なので、それが何か古臭く思われるのも、行き過ぎた眼がこれを見るからである。伝統は徐々に確実に進むだけだ。
「文學界」編輯後期24――「ドストエフスキイの生活」のこと
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー氏のことを書いた本について書いています。
久しい間、ドストエフスキイは、僕の殆ど唯一の思想の淵源であった。
自我と方法と懐疑
ルネ・デカルト(René Descartes)氏の本について書いています。
「自我」の問題は、古今東西を貫くという事を、彼ほど僕にはっきり教えてくれた人はない。
学生の頃に『方法序説』を読んだ気がするのですが、あまり覚えていません。またひっぱりだして読んでみようと思います。
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疑惑 Ⅱ
政治とからめてご自身の仕事について書いています。
鑿を振って大理石に向う彫刻家は、大理石の堅さに不平を言うまい。
疑問
なんやらむしゃくしゃしているような感じです。
出来上がって了った知恵とか思想というものは、どんな時代でも本当言えば暇人の玩具に過ぎないのであるが、今日のわが国の国民思想を考える様な場合には、特にその事を痛感せざるを得ない。
外交と予言
政治について書いています。独ソ不可侵条約――
ドイツは名実ともに共産主義に転向するであろう、その時には花火なんぞ上るまい、と。
鏡花の死其他 ☆
泉鏡花氏の逝去にふれ、文章を書いています。いい文章です。
お化けが恐いのはお化けが理解できないからであり、自然が美しいのも自然が理解出来ないからであろう。
現代の小説家は、例えばフロオベルから、リアリズムという小説技術は学んだ筈なのに、彼が信じた様な絶対的な小説という言葉による創造の世界の絶対性などは、もう到底信ずる力がない。
神風という言葉について
神風という言葉、それをとりまく人たちについて書いています。
内的な必然性に固執する芸術家の仕事の方が、遥かに確からしい仕事と、彼の眼に映らぬであろうか。
「デカルト選集」
デカルトについて書いています。ロダンも出てきます。小林秀雄氏の考え方のいくつかは、ロダンにつうじているように思います。
又この「理性の光」を育てる方法は各人が己れの裡にその種子を発見し、これに恰も職人が自分の技術に習熟する様に習熟する他はないことを。
大獄康子「病院船」
戦争文学の特徴について書いています。
翻って思え、今日の文学が充分な表現に拘らず、心眼を開いてこれを見れば、なんと何が何だかわけのわからぬ人間共ばかり書いている事か。
「テスト氏」の方法
アンブロワズ・ポール・トゥサン・ジュール・ヴァレリー(Ambroise Paul Toussaint Jules Valéry)氏について書いています。
哲学者に対する無関心或は不信用は、ヴァレリイが機会ある毎に示している処だが、デカルトだけは例外である。彼はヴァレリイの推賞して止まぬ唯一の哲学者であり、「方法序説」はヴァレリイが取上げて批評している唯一の哲学作品だ。
「僕が、それを明らさまに演繹してみせたくないというわけは、人が二十年もかかって考えた処を、二言三言聞いただけで、一日で理解したと思い込む様な人々、そういう人々は明敏なほど失敗も多く、真理から遠ざかる連中だが、そういう人々が、これを機に僕の原理と信じ込んだものの上に、無法極まる哲学を築き上げ、その罪を僕に帰する事を恐れた為である」
人生の謎
サント・ブウヴの言葉をとりあげています。
要らないものは、だんだんはっきりして来る。
学者と官僚
西田幾多郎氏について書いています。
例えば西田幾多郎氏なぞがその典型である。氏はわが国の一流哲学者だと言われている。そうに違いあるまい。だが、この一流振りは、恐らく世界の哲学史に類例のないものだ。氏の孤独は極めて病的な孤独である。西洋哲学というものの教えなしには、氏の思想家としての仕事はどうにもならなかった。氏は恐らく日本の或は東洋の伝統的思想を、どう西洋風のシステムに編み上げるべきかについて本当に骨身を削った。(略)そしてそういう仕事で氏はデッド・ロックをいくつも乗り越えて来たに間違いあるまいと思う。
だが、この哲学者は、デッド・ロックの発明も征服も、全く一人の手でやらねばならなかったのである。こういう孤独は、健全ではない。(略)
西田氏は、ただ自分の誠実というものだけに頼って自問自答せざるを得なかった。自問自答ばかりしている誠実というものが、どの位惑わしに充ちたものかは、神様だけが知っている。この他人というものの抵抗を全く感じ得ない西田氏の孤独が、氏の奇怪なシステム、日本語では書かれて居らず、勿論外国語でも書かれてはいないという奇怪なシステムを創り上げて了った。氏に才能が欠けていた為でもなければ、創意が不足していた為でもない。
学生の頃に小林秀雄氏の言葉に支えられ、救われたような体験を勝手にしていますので、感謝のような気持ちがなくなることはありません。
井筒俊彦氏の文章を読んで以来、西田幾多郎氏への印象が変わりました。
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歴史の活眼
明治大学での講義について書いています。
「工夫あらん仕手ならばまた目きかずの眼にも面白しと見るやうに能をすべし」と世阿弥は教えた。
読書の工夫 ☆
小説を読むということについて書いています。いい文章です。
世間知らずの画家にも美しい画は書け、別に人間通でなくても、美しい音楽の書ける作曲家もあるだろうが、小説というものは、何と言っても世間の観察、人間の観察が土台となっているもので、世間を知らない小説家なぞあるものではない。(略)
いい小説は、世間を知り、人間を知るにつれて、次第にその奥の方の面白味を明かす様な性質を必ず持っているからだ。
立派な作家は、世間の醜さも残酷さもよく知っている。そして世間の醜さも残酷さもよく知っている様な読者の心さえ感動させようとしている。これが作家の希いであり、夢想である。
小説の一番普通の魅力は、読者に自分を忘れさせるところにあると書いています。そこから踏みこんで以下のようなところまで読者を連れていきます。
実地に何かやってみるまでもなく、小説を読んでいれば実地になんでもやっている気になれるので、実地になにもやらなくなる。じっと坐っては人生を経験した錯覚を楽しみ時を過ごすようになる。(略)
これは小説ばかりではない、いろいろな思想の書物についても言える事だ。読書というものは、こちらが頭を空にしていれば、向うでそれを充たしてくれるというものではない。
日比野士郎「呉淞クリーク」
戦争文学について書いています。時代柄かもしれません。
「呉淞クリーク」だけが戦争ではあるまい。だが作者は、この戦争の一場面に、自分の精神を一っぱいに隈なく使用している。
イデオロギイの問題
ご自身の批評について書いています。
人間は、正確に見ようとすれば、生きる方が不確かになり、充分に生きようとすれば、見る方が曖昧になる。誰でも日常経験している矛盾であり、僕らは永久に経験して行く事だろう。(略)
見る事と生きる事との丁度中間に、いつも精神を保持する事、どちらの側に精神が屈服しても、批評というものはない。これは理智の上の仕事というより、寧ろ意志の仕事である。
そしてここでサント・ブウヴ氏が姿を現します。小林秀雄氏は1902年生まれですが、1804年に生まれたフランス近代批評の父と呼ばれた人に支えられていたのかもしれません(翻訳を全集に載せなくてもと思いましたが、それほど大きな影響の下にあったということなのかも――)。
何故思い切って毒を呑まないのだろうか。懐疑と独断との種に充ちた実生活にあって、自分の精神がどう揺れるか、そのありのままの精神を純化して、これを批評の原理とするのを、何故恐れるのか。詩人や小説家はたとえ無意識にせよ、又漠とした足取りにせよ其処へ行く。
新明正道へ
新明正道氏は1898年うまれの社会学者らしいです。この頃、その方と言い合いをしました。その一部です。
君は君でやればよろしい。
小林秀雄全作品(12) 我が毒 [ 小林秀雄(文芸評論家) ]
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